内 代 青 年 団

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だんじりPhoto


【大宮神社の由緒】
大宮神社の創建は今から約825年前に遡ります。 文治元年2月(1185年)に源義経が平家追討の下向の折、この地に立ち寄り、宇佐八幡の神の霊夢を見て目覚めたところ、一樹の梅の古木に霊鏡がかけられ ていました。義経は我に神助ありと勇気百倍になり、その鏡を奉じて平家を打ち滅ぼし、このことを後鳥羽天皇に奏上して神社建立を許され、この地に社を建て 「大宮八幡宮」と称したと伝えられます。摂津誌には「南島神社」と記されています。
 時代は降り、天正11年(1583年)には豊臣秀吉が大阪城を築くにあたって、当社を「鬼門守護神」と崇めました。社殿・末社の建立や神域の整備が手が けられ、毎年正・五・九月に幣帛を献じお祀りしたと伝えられます。当時の社殿は広壮で境内は3ヘクタールあり、南は京街道(現在の内代町)に一の鳥居があ り、そこから神社まで続く参道には両側に松並木が続いていました。境内には樹木がうっそうと茂り、四周に清らかな流れがひかれていたそうです。殊に朱の社 殿、朱の橋が社の緑に映える姿は荘厳この上もなかったと伝えられています。
 続く徳川時代にも大阪城の鬼門守護神としての信仰は厚く、大阪城代交代時には当社への参拝が行われ、毎年正月には初穂料を、また五・九月には大幣を献納 して祈願したと伝えられます。しかし、社殿などは年を追って衰微していましたが、天明・寛政の時代に、祠官廣渕肥後守善直が社殿・境内の復旧に努め、その 功により朝廷より従五位下を授けられています。
 その後、明治末期に近隣神社7社を合祀し、明治45年4月に「大宮八幡宮」改め「大宮神社」と称するようになり、現在に至っています。
 以前は本殿北側に小山があり、沢山の椿が見事に咲き乱れ、昼間でも狐が寝そべっているというのどかな風景だったと伝えられますが、明治初年の京街道改修の折に小山は取り崩されました。現在は大宮中公園として地域の憩いの場となっています。
(平成23年1月 記)

【御祭神】
応神天皇 神功皇后 姫大神 大国主神 事代主神 速素盞嗚神 八剱大神 十五社大神 菅原道真公 三十番神
相殿 鬼門守護社(鬼門守護大神) 天満神社(菅原道真公) 天御中主社(天御中主大神) 稲荷社(稲荷大神)

【境内神社】
高良社(武内宿禰公) いぼ大神社(いぼ大神) 稲荷社(稲倉魂神) 三社神社(春日大神 住吉大神 廣淵義直神) 若宮八幡宮(仁徳天皇)

(大宮神社さんのホームページ参照)



【大宮神社の一の鳥居】
上記には、「南は京街道(現在の内代町)」と記載されていますが、正確には高殿四丁目付近です。昔この辺りは内代村だったのでこの表記になったのかと。(管理人調べ)
この一の鳥居がかかっていたので内代は大宮神社の氏子となりました。
「うなぎの魚伊」さんの辺りです


【大宮神社と地車】
明瞭な記録は残っていませんが調べたところ、
明治12年頃の大宮神社宮入りは、荒生・千林・森小路・古市・大宮(南島)・中宮・(江野)・内代・生江(西荒生)。西荒生は、被差別部落のため、宮入り出来ず。

明治20年頃は荒生・千林(2台)・森小路・古市・大宮(南島)・中宮・内代・生江(西荒生)。
今現在曳行出来る地車が残っているのは、内代と生江の2台です。中宮の地車は曳行はしていませんが現存しております。
(2012.10.11 追記:平成24年から中宮の地車が復活しました。)


【他地区の地車の行方】
南島
=現・大宮。宮本に当りかつて地車あり。大阪復興祭(昭和23年?)には出したと言われる。

生江
=現・生江2丁目と生江3丁目の中津太子橋線の南側に当る。旧・荒生(なぎ)の本村。寺は蓮生寺がある。

森小路
=昭和20年代後半か30年代前半に老朽化で潰れたらしい。

古市
=戦後しばらくは地車があった。いつ処分したのか不明。

千林
=明治18年の台風で淀川が切れて傷んだためか2台の地車を1台にする。元々はやや小型の北河内型。
元々の部材は台木、コマくらいで、地元の有志による修復で屋根もトタンを巻いている。
戦後は昭和22年に出した記録がある。地元では昭和40年まで曳いていたと伝えられる。
地車小屋は現・千林商店街振興組合事務所。
地車小屋を潰して事務所を建てることになり、地車を近隣の寺に預けるが取りにこず。何年もたち、遂には千林小学校に保管となる。これは昭和48年頃らしい。1年ほどは野ざらしで保管されるがPTAが見かねて倉庫に保管となるが、今や所有者は無いようである。
大工は不詳。彫師は枡合に「福太郎」と墨書きあるので8代目小松源助と分かる。他には服部系、辻田系の彫筋も見られるという。
屋根は銅板。
懸魚:「琴高仙人」。
獅噛みの目玉(欠損)には昭和11年発行の大阪朝日新聞が詰められていた。
車板:前は「龍が宝珠掴む」(920x620)、後ろは「向い唐獅子」(920x620)。
桝合:前右は「前向き飛龍」(900)、前左は「前向き飛龍」、後ろ右は「向い唐獅子」(830)、後ろ左は「向い唐獅子」。
脇障子:「龍」。(右寸法は370x800)。
勾欄:「唐獅子」(1800)。

江野
=地内に普現寺あり。かつて地車あり。昭和10年頃に事故のため柏原市円明町に売却。

今市⇒鎮守の弥栄神社は明治43年(1910)、大宮神社に合祀。
=昭和30年頃まで曳行。今市会館の右斜め後ろに地車小屋があった。現在は車庫。



【内代地車】
内代地車は明治22年頃、現中央区安土町より購入。明治中期に購入したことから、江戸後期から明治初期に製作されたものと思われる。
彫師や大工など明確な資料は無いが、現東大阪市長瀬地車と兄弟地車と言われていることから彫り物は彫友の手によるものと思われる。
内代地車は通し柱である点や、前梃子部分に懐がある点、摺り出しが無い点、住吉型とも違い平台木である点から構造的に区分すると大阪型地車といえる。
内代地車は小型ながら彫刻の仕上がりは素晴らしい点もあり、所々彩色はあるが、古式の彫り物らしく大柄の彫刻が周りを覆っています。



「ぢ」と「じ」の違いについて
ひらがなにすると「だんぢり」と書いてある事が多々あります。そこで少し時間があったので調べてみました。

同音の連呼によって生じる・2語の連合によって生じた「ぢ」や「づ」(前者ではちぢむ・つづく等、後者でははなぢ・そこぢから等)ですが、現代では一般に2語に分解しにくいものは基本的に「じ」や「ず」を用いるそうです。
漢字音読みで元々濁っている『地』は「ち」と「じ」があるが、文頭に来る本来『ぢ』になりそうなもの(じしんなど)は『じ』と表記するらしい。
現代仮名遣いの基準は江戸時代の統合を継承したもので発音は「ぢ」には「じ」、「づ」には「ず」の文字が基本的に使われる基準が定められています。

私が察するに、
1.古い言い回しをした方がカッコいいから「ぢ」にした。
2.地車(じぐるま)と書いて「だんぢり」と読むが、平仮名の読みのだんぢりの「ぢ」の部分と地車(じぐるま)の「地(ち)」をあてて「ぢ」と読んでる。
(実際には地車という漢字は当て字で本来は楽車[漢字検定1級の問題にありました]漢字については諸説あるみたいです)

※1に関して、現代仮名遣いが江戸時代という事は地車も江戸時代に出来たという事なのでこれの生まれた前後によって、正式に「だんぢり」か「だんじり」か分かりそうですね☆
ただ、ほとんどの人には関心のない話ですがw


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